きらきら

わんこのお話からお仕事のお話からおいしいもののお話から。なんでもありあり。

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清らかに両親の手を旅立てりおとぎ話の姫のごとくに

末席に花嫁の父は背を伸ばし「泣かない」つもりでうつむいてみる


会社の後輩の披露宴に行ってきました。
この年齢になると、友達の結婚はもう少なくなってくるので、結構久々です。彼女ももうそんな年頃になったんだなあと、なんだか感慨深いものがありました。何せ、高校生の彼女を知ってるくらいなものですから

とても良い宴でした。贅沢することなく、二人で作り上げたという感じで、そうかといって物足りないところのない、感動的なものでした。

「お父さん、お嫁に行っちゃってごめんね」
両親への手紙の中で、新婦がそう読み上げたとき、思わず笑って、そして泣いてしまいました。彼女のお父さんが、どれだけ娘をかわいがっていたか、よく知っていましたから。
そしてお母さんは、本当に明るくて強い人でした。娘の旅立ちを感動の涙で見守りながらも、娘と二人で撮影されるときにはピースサインを決めてみせ、関係者へのご挨拶を夫を支えつつきちんと行い、常に優しい微笑を忘れない人でした。
彼女が「お母さんは私の目標」と言っていましたが、本当に目標にされるべき方だなあと実感。

「お父さんのダイヤモンドだよ」
と、言って育てられたという彼女。
何でもお母さんに話し、友達のようにどこへでも一緒に出かけたという彼女。
お金持ちじゃなかったけれど、家族四人で仲良くたくさんの思い出を作ってきたという彼女。
すごく、うらやましかったです。こんな風に育ったからこそ、明るくて思いやりのある女性になったんだなあと思います。
家族に愛されて育つって本当は普通のことなんでしょうね。だけど、私を含めて、その普通のことが出来ない人も居ます。
家族に愛がある。その普通のことが、どの家庭にもまんべんなく訪れたなら、世の中の不幸な出来事は激減するんだろうなと、考えてしまいました。

それと、友人たちが本当に二人の結婚を喜んでいたことにも、二人の人柄を感じて心があたたまりました。
新郎の友人が男泣きに泣いてるところがほほえましかったです。

花嫁が手紙を読み終えたとき、花嫁の父は泣きながらピースサインを出して見せました。そして、花束贈呈の場面では、思わず娘を抱きしめていました。

これから先もきっと、二人と二家族は、きっと幸せに、過ごしていくに違いないと思える披露宴でした。
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うすぎぬの雲をなびかせ天上にひんやりとゐるいざよいの月

焼け焦げた肌には太陽しみついて月のくちびる待っているのに

本当は誰を愛しているのかも分からないから満月を呼ぶ

透明の夕暮れにじっと立ち待ちて 月に誘われ家出をしよう


月が好きです。
なんでだか、自分でもよく分からないのですが、子供の頃からずっと好きです。月を見上げていると、ほっとしてやがて晴れ晴れとして、なんだかすごくすっきりするのです。

漆黒の空に、真珠のように輝く満月を見ていると、すーっと雲が晴れていくような気がしますし、下弦の細い三日月を見ていると、閉じた瞳を見ているみたいで、いつまでも目が離せなくなります。いつか目を開くんじゃないかと思ってしまうのですよ。上限の三日月なら、笑っているみたいで楽しくなってくる。

まだ明るい空に儚げに浮かぶ白い月も、ぼってりとした濃いオレンジ色の昇り始めの月も、大好きです。

子供の頃は、昼間は雲が流れていくのを見上げているのが好きで、夜は月を眺めているのが好き、という、なんともロマンチックな女の子だったわけですが、そうかと言って、いわゆる不思議ちゃん系のふわふわしたところは、微塵もないのが私でした。空想の世界が好きなくせに、人との距離感をすごく気にして、なるべく遠くなりすぎたり近くなりすぎたりしないようにと、神経すり減らしてました(笑)。
悪いことは一切しないし、まじめに普通にやってるけれど、自分の本当の姿を見せるのはどうしても出来ない子だった。無邪気なところが無い子供だったのです。なんか嫌な子供ですね。

何も言わずにただ大きく包んで欲しいとき、私は空を見ていたような気がします。ただただ、そこにいて、何も求めないし何も求めさせない、そういう大きな自然の力に、私は安らいでいたのかも知れない。私だって、本当は無邪気な子供になりたかったのかも知れない。

玄関に置いた月下美人の花の香りが、部屋にまで忍び込んできました。
今夜月は雲の向こうに居るようで、「月下」じゃないところが寂しいですが、月の光のはじっこを雲の合間に見つけるだけでも、なんとなく落ち着きます。
白 薄紅 若葉 つらつら繰り返し 並木は誘う遠い町まで

庭先の幼木(おさなぎ)見とれつまづいた いつも他人の庭など気にして

さやさやと雨だれ受けて白弾むこんな日だってあるよと弾む

桃色のほっこり笑う花びらは病んだ腹にも染み込む薬効

優しげな言葉の裏にある意味をいい年をして今更に知る

見ていても見ていなくても咲く水木 私もそこへ咲きたい生きたい


「琴線に触れる」と言う言葉がありますが、花水木は、私の「琴線に触れる」花のひとつです。
木蓮にも気を奪われることが多いので、多分、細長い木にぱらぱらぱらと花や葉がついている様子が、なんとなく切なげに見えてしまうってことなんでしょう。

桜みたいにわっさわさと咲くわけじゃない、椿みたいに青々した葉の間に可憐な花がぽっと浮かび上がると言うことでもない、なんとなく頼りなげな風情のあるところに、心惹かれてしまうわけです。

季節のせいもあるのでしょうが、花水木は、見るたびに、思春期から大人の始まりまでの、青年を思わせるところがあります。
儚げで瑞々しくて精一杯を感じます。

対して、木蓮は大人の苦さを感じます。無理に咲く必要はないのだけれど、それでも天に向かって咲かずにはいられないとでもいうような、ふっくらとした花は、華やかではなくても、思わず立ち止まらずにはいられない芯の通った美しさがあります。3月を過ぎると、茶色く変色してばらばらと散っていき、それと入れ替わるように、花水木が色付きだします。なんとなく、3月に定年を迎えて去られる先輩方と、4月に意気揚々とやってくる新入社員、みたいな構図に感じられてきます。

いずれにしても、誰かに見られるために咲くのではなく、花だから咲く、と言うその淡々とした覚悟を、いつも心にとどめて生きていきたいと、季節の花を見るたびに思います。
こういうのあなたの胸にもあるでしょう 焼き付けられたくちびるのあと

風がくる私の髪を乱そうと散ればいいのに私はさくら

ここまでは手すりにつかまり生きてきたここから先は目隠しの日々

後ろから縛られたまま堕とされる私の奥で散らばる無情

かき集め寂しい女を演じたら笑うことさえ今では平気
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